ルピナス文庫 

ルピナスさんー小さなおばあさんのお話ー

『ルピナスさん―小さなおばあさんのお話― 』バーバラ・クーニーさく
原書名『 Miss Rumphius 』
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先日、ルピナス文庫のプチ講演会でお話頂いているTさんを中心とした絵本の会で、Tさんがこの本についてお話をして下さいました。
とりわけ、村長さんとの出会いのシーンの原書と日本語訳の違いについて。
「ルピナス文庫」という看板を掲げておりながら、恥ずかしいことに原書との比べ読みをしていなかった私は、家に帰ってから慌てて取り寄せをしました。
まず、表紙を見た瞬間に感じたことは
「なんて美しい色遣い…。」ということです。
中のページ、ほとんどのページで、色遣いが違っていて原書の方が美しさ、力強さ、輝きに満ちているように感じられました。
そして原書と日本語版とを丁寧に読み比べてみて、バーバラ・クーニーがこの本で描いたことを、自分はまだ、表面的にしか理解できていなかったことに気付きました。

私はこれまで、この本の中で、
世界を美しくするために何かをすること
ミスランフィアスが花の種をまいたこと
この部分に特に惹かれていましたが、
大切なのは、そこだけではないのだと、気付きました。
一見、世界を美しくすることには関係のないように思えるシーンも、ミスランフィアスの旅も、全てがつながっている「いのちの旅、いのちの出会いの美しさ」を描いた素晴らしい本だと感じられました…。

アリスのおじいさんが仕事をしている姿。
おじいさんと大切な約束をするシーン。
成長し、ミス・ランフィアスとよばれるようになったアリス自身の「出会いの旅」。
南の島の村長さんとの出会いのページ、原書は村長さんの名前も書かれているし、村長さんがプレセントした真珠貝は村長さん自身がゴクラクチョウの絵を描き、言葉を書いたものであることもわかります。これが単なる南の島への旅ではなく出会いの旅あることが良く伝わります。
「いつまでもわすれません」
この言葉は次のページでも出てきますが、大切な言葉です。

怪我をして自身の「出会いの旅」を続けることはできなくなり、「世界を美しくすること」を意識しながらも、自分にできることはたいしてないことを感じているミス・ランフィアス。
「いまでも、それほどわるくはないのに」
 ――The world aiready is pretty nice

この時、ランフィアスは花の種をまきますが、日本語版のように「いわがごろごろしていましたが、そこをたがやして」蒔いたのではなく、岩だらけの地面に蒔いただけです。
悪条件に蒔いている、ということは大切なポイントです。

そしてベッドから出る事の出来なくなったミス・ランフィアス。
ミス・ランフィアスの「老い」と、岩だらけの地面から花を咲かせてくれたルピナスの花、「輝く生命(いのち)」との対照的なシーン。
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原書の色遣いは部屋の中のブルーと、窓の外のブルーが、もっと対照的に描かれています。色調も光の量も違います。暗い部屋のなか、窓の外のルピナスが咲いている様子にミスランフィアスの心が動いている様子は実に美しいです。
けれど、心は動くのに、身体が動かない現実。
ルピナスが好きだから、ルピナスの種をもっと蒔きたい、そう願いつつも、
できなかったのです。

ここまでのどれもが大切で、だからこそ次のページが最高に美しく感じられるのです。

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(左が原書、右が日本語版)

そう願って蒔いたわけではなかったけれど
自分が蒔いた花の種から新たに種が生まれ、
おもいがけないところで
風や鳥と出会って(自分以外のものと出会って)
美しく花を咲かせていた……

日本語版はこちらも色が薄く、寂しさを感じる色合いですが、原書は新緑の緑、春の光、いのちの輝きに満ちていて、ミスランフィアスが心震えるほどに喜んでいる様子がよく伝わります。
生命(いのち)の旅、生命(いのち)の出会いの美しさ 奇跡
生命、生きる、ということへのバーバラ・クーニーの思いがぎっしり詰まった最高に美しいページだと思います。

この本を見て、読んで、何を感じるか…。
世界はじゅうぶん美しいということがどういうことなのか…。
世界を美しくする、ということがどういうことなのか…。
年齢によって、経験によって、人それぞれ
様々なことを感じることができるはずです。

子育て 仕事 老い 震災……
出来ること、出来ないこと
自分にできることの限界 非力
もどかしさ
そんなことに悩んでいる人に、是非出会ってもらいたい一冊です。
些細なことに思えても、
ほんの少しの意味しか持たない行動などないのだということ
願って行動するなら、もっと大きな力につながるのだということ
生命(いのち)のうつくしさを描いた極上の、一冊。

こんなにも美しい本だったなんて…。
胸が震え、涙が出てきました。

思い出した詩がひとつ。
神谷美恵子著『こころの旅』の中の壮年期について語られている部分に載っている詩です。
私が学生の頃に読んで以来、心から離れない詩。

赤ん坊を抱いたひとりの女が言った
どうぞ子どもたちの話をして下さい
(それで預言者は言った)
あなたがたの子どもたちは
あなたがたのものではない
彼らは生命そのものの
あこがれの息子や娘である
彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない……
あなたがたは彼らに愛情を与えうるが
あなたがたの考えを与えることはできない
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。
あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
彼らの魂を宿すことはできない
なぜなら彼らの魂は 明日の家に住んでいるから。
あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが
彼らに自分のようにならせようとしてはならない
なぜなら生命はうしろへと退くことはなく
いつまでも昨日のところに
うろうろ ぐずぐず してはいないのだ
あなたがたは弓のようなもの
その弓からあなたがたの子どもたちは
生きた矢のように射られて 前へ放たれる
射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ
その矢が遠く遠くとび行くように力をつくす
射る者の手によって
身をしなわせられることをよろこびなさい
射る者はとび行く矢を愛するのと同じように
じっとしている弓をも愛しているのだから
  ―――カリール・ジブラン「預言者」より  
(神谷美恵子著『こころの旅』P129-131)

初めて読んだ学生の頃は、「矢」の気持ちで、これを読み、ページを折りました。
「もう、放してほしい。信じてほしい」
そう、切に願って…。

でも今、親として、責任を感じながら子どもたちと過ごしてきたからこそ惹きつけられるのは、「弓を放つ」ということの意味。宗教観の違いからでしょうか。私は射る者の存在を感じながら生きているわけではありませんし、どちらかといえば射る者と弓とが一体の感覚で生きてきました。
そして今、長男が中学3年生になろうとしています。
高校受験を控え、彼自身大いに悩み、もがいています。
そしてその横で、わたしもまた…。
もう、手を離して大丈夫なのかもしれないし、まだ早いかもしれない。
矢は、ひとりひとり、強さも、性質も違うのです。
どれくらい引けばいいのか、どこで手を離したらいいのか……。
単純に年齢で判断できることではなく、悩みは尽きず、答えも出ない。
私にできることなんて、たかが知れています。
されど… だからこそ…
悩んで、迷って、もがいている真っ只中です。
弓が飛んでゆく先の未来を信じる力が欲しい……。
神谷美恵子さんは同じ本の中で、壮年期(25歳くらいから55歳くらいまで)の核を「産みっぱなしにしない」ことだとし、人間のあらゆる活動に広がっている「生み出したものを育むということ」について語っています。学生の頃、この「産みっぱなしにしない責任」ということに非常に感銘を受け、そのことを大切にしながら、生きてきました。ところがいつの間にか大切にしすぎて「責任」にばかり心が向いて、生まれてきた生命、それ自体の生きる力、出会いの力を信じることができなくなっていたようです。
子育てに限らず、
自分にできること、できないことにばかり心が向いていて、苦しかったのかもしれません。

だからこそ、このページを見て、心が震えたのかもしれません。

「大丈夫。そう、大丈夫……。」

信じる力を貰えたようで、涙が出たのかもしれません…。

なにかストンと胸に落ちて、目の前が明るくなったのを感じながら
私は「ついで」のように『こころの旅』を読み返し、そしてまた、励まされました。

たとえ子どもが環境からストレスを受けて、こころがそのために一時的に「病んだ」としても、これを癒すための動きがひとりでに起こって子どもの人格内に次々と新しい「構造」が形成され、こころの中のバランスがとり戻されるのであろう。こうみてくると「親の努力ゆえに」子が育つというよりは「親の数々のあやまちにもかかわらず」子がすこやかに育っていくというほうが事実に近く思われてくる。
    (神谷美恵子著『こころの旅』P80)
実際には「癒すための動きがひとりでに起こる」というより、
親の知らないところで、友と、師と、人と、自然と、物と、出会って
バランスが取りもどされてゆくのでしょう…。
親たるものの最低の責任はもちろん大切なことなのだけれど、
あくせくせずに、
子ども自身の持つ出会いの力を、生きる力を信じて待つ
そのことの大切さを
『 Miss Rumphius 』と『こころの旅』に改めて教えてもらいました。

いのちの出会いの美しさを描いた本。
そう思って、原書を読み返すと
全てのページが、もっと違って見えてきます。

いつか
子育てがひと段落した時、
またきっとこの本と新たな出会い、本当の出会いがあるのかもしれません。
世界を美しくする、ということの本当の意味がわかるのは、まだ先のことかもしれません。
ミスランフィアスが、自分の蒔いたルピナスの花の種の旅に勇気づけられ、新しい人生を歩みだしたように…。

そのときが、楽しみです。
生きているって素晴らしいこと。
出会い、永遠につながっていく生命。
本当に、生きるって、なんて素敵なことなのでしょう…。

本を出版するという事も、出会いの種をまくお仕事と感じております。
でもその種が、不要なコーティングを施されていたりしたら、
美しい花を咲かせることができないかもしれません。
バーバラ・クーニーの『Miss Rumphius 』は、「いのちの旅、いのちの出会いの美しさ」を描いた素晴らしい本だと思いますが、日本語版では、その印象が薄らいでしまっています。
まず、ほぼ全ページでの色遣い。
緑と紫とブルー、光の印象がまるで違っています。
これは非常に残念なことです。
そして南の国での村長さんとの出会いのページ。
名も無いどこかの村長さんではないのです。
Bapa Rajaという名前の村長さんです。
「あなたのことはずっと、忘れないでしょう」
村長さんが自身の手で貝殻に鳥の絵と共に描いてプレゼントしたこの言葉、大切な言葉だと思います。
どうか原書のままに。
どうか原書のままの色遣いで、文章で
出版して頂けないものでしょうか……。
宜しくお願いします。
ほるぷ出版さん…。
→色々調べてみたところ、原書(英語版)も、古いものだと現在の日本語版とほぼ同じ色遣いのようです。
さらに調べたところ、どうやら発行元のViking Pressが、この本の30周年を記念してバーバラ・クーニーの原画に忠実に改訂したようです。
ということは、日本語版の初版は1987年、原書の改訂が2002年ころでしょうから色遣いに関しては仕方のない事だったのかもしれませんね。
でも、それでは尚更のこと、
是非とも日本語版も改訂お願いしたいですっ!懇願!

中国版(?)は改訂された新しい色遣いで出版されています。
ちなみに、『花婆婆』という題名でした・笑

美しいと思う花の種、
私も誇りを持って、蒔いていきたいと思います。
その先の出会い、未来は、子どもたちのもの…。
今月の特集は
「うつくしい本」「いのちの本」
今月も親子で、楽しんで下さい…。
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